堀 新・井上泰至編『豊臣一族徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(文学通信)
9月下旬刊行予定です。

堀 新・井上泰至編『豊臣一族徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(文学通信)
ISBN978-4-86766-128-4 C0021
A5判・並製・416頁
定価:本体3,200円(税別)
「チーム秀吉」の全貌がわかる。
信長から秀吉、そして家康へ。権力が移り変わるとき、豊臣一族は人々にいかに記録され、描き記されたのか──。
秀長・秀次・北政所・千利休・淀殿・秀頼・高虎・遠州...。〈チーム秀吉〉の人々や『太閤記』などの文学作品、合戦図屏風、城郭、服装など、歴史学と文学の融合という新たな研究潮流から豊臣一族を徹底的に読みとく。
これから豊臣一族について知りたい人、これまで抱いていた豊臣一族像をアップデートしたい人にとって必携の一冊。
執筆は、堀 新/井上泰至/北川央/金子拓/菊池庸介/光成準治/遠藤珠紀/湯浅佳子/網野可苗/桐野作人/吉田豊/石塚修/太田浩司/荻原大地/竹内洪介/和田裕弘/長崎巌/高木浩明/黒田智/岡野有里香/高橋修/福井智英/松下浩/河内将芳/岡嶋大峰/宮崎博司/山田邦和/川西裕也。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」が100倍面白くなる、研究の最前線がわかる!
「序──分裂する秀吉イメージを繋ぐには」より
【第一部では秀長・秀次・秀秋・秀頼ら主要人物について、史実に基づく「実像」と後世に形成された「虚像」を対比的に提示し、人物像の乖離とその背景を明らかにした。第三部でも『太閤記』などの文学史料を対象に、同様に実像と虚像の差異を読み解き、言説の生成過程を検証した。一方、第二部は一族の周辺へと視野を広げ、家族関係や社会的基盤を補足し、第四部では肖像画や合戦図屏風といった視覚資料からイメージ形成のあり方を分析した。さらに第五部では城郭研究の成果を通じて権力の空間的実態を示した。以上により、史料批判と表象分析を接続し、豊臣一族をめぐる歴史像の総合的な再構築を試みた。その全体からチーム秀吉を捉えられるようにした。】
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【編者プロフィール】
堀 新(ほり・しん)
1961年生まれ。共立女子大学教授。著書に『信長公記を読む』(吉川弘文館、2009年)、『天下統一から鎖国へ 日本中世の歴史7』(吉川弘文館、2010年)、『織豊期王権論』(校倉書房、2011年)、『戦国合戦図屛風・絵巻を読む』(勉誠社、2026年)、共編著に『近世国家 展望日本の歴史13』(共編、東京堂出版、2000年)、『消された秀吉の真実 徳川史観を越えて』(共編、柏書房、2011年)、『岩波講座 日本歴史 第10巻 近世1』(共著、岩波書店、2014年)、『秀吉の虚像と実像』(共編、笠間書院、2016年)、『信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(共編、文学通信、2020年)、『家康徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(共編、文学通信、2023年)など。
井上泰至(いのうえ・やすし)
1961年生まれ。日本文学研究者。著書に、『サムライの書斎 江戸武家文人列伝』(ぺりかん社、2007年)、『江戸の発禁本』(角川選書、2013年)、『近世刊行軍書論 教訓・娯楽・考証』(笠間書院、2014年)、共編著に、『秀吉の対外戦争 変容する語りとイメージ 前近代日朝の言説空間』(共著、笠間書院、2011年)、『秀吉の虚像と実像』(共編、笠間書院、2016年)、『関ヶ原はいかに語られたか』(編著、勉誠出版、2017年)、『関ヶ原合戦を読む 慶長軍記翻刻・解説』(共編、勉誠出版、2019年)、『信長徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(共編、文学通信、2020年)、『家康徹底解読 ここまでわかった本当の姿』(共編、文学通信、2023年)など。
【目次】
序──分裂する秀吉イメージを繋ぐには[井上泰至]
一 「明るさ」と「人たらし」
二 戦後社会における歴史と文学の間
三 秀吉像の〈明〉と〈暗〉
四 秀吉像の分裂の行方―本書の位置
五 本書の構成
第一部 主要人物
【第一部では歴史学(実像編)と文学研究(虚像編)のそれぞれの立場から、豊臣一族の主要人物に光をあてる。】
1 豊臣秀長
【本当に秀長はただ秀吉の「陰」の人だったのかといえば、そうでもなかった。そこに「陰」を強調して、「光」をも浮き立たせる脚色の実態が見えてくる。】
実像編[北川 央]
【堺屋太一氏の小説『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』がベストセラーになって以来、豊臣秀長には「名補佐役」のイメージが決定的となった。小説の中で堺屋氏は、秀長はあくまで「補佐役」であって「後継者」ではなく、決して「ナンバー1を目指すことはなかった」と述べた。史料からうかがい知れる秀長の実像は、果たして堺屋氏が小説に描くとおりの人物だったのであろうか。】
一 秀吉の弟
二 輝かしい戦歴
三 華やかな経歴
四 寺社政策
五 秀長の後継者
六 秀長の人物像
虚像編 [井上泰至]
【秀吉はその出自の低さと、その眩しい積極的活躍による「出世」において、日本史の「例外」といってよい。日本で英雄は、挫折して惜しまれ、崇められる存在であることが多い。秀吉のように現世で、あそこまで成功の果実を得て上り詰めた者はまずいない。その「光」が強ければ強いだけ、「影」の部分も濃くなる。秀吉政権の「影」を背負った秀長に注目した作家たちを中心に、その流れを一望してみよう。】
一 誰が秀長に注目したのか
二 影の人秀長の定位─司馬遼太郎
三 秀長の意地と甘え
四 王者の孤独に付き添う
2 豊臣秀次
【秀次の最期をめぐっては、今も研究者のあいだで、意見が割れている。秀長は秀吉の「光」を受けた陰の存在とみられがちだが、秀次は豊臣家の没落という、より大きな「陰」を背負わざるを得なかったのである。】
実像編[金子 拓]
【豊臣秀次は、秀吉の姉の子、つまり秀吉にとって甥にあたる。宮部氏や三好氏に養子に出されたあと、叔父秀吉により一軍を率いる将とされいくさに出た。しかし長久手合戦において手痛い敗北を喫し、厳しく叱責される。その後は近江や尾張を与えられるなど、子のいなかった秀吉の後継者と目され、官位も順調に昇進した。秀吉から関白職を譲られたものの、謀反の嫌疑を受けて自害するという波乱に富んだ生涯を送った。】
一 豊臣秀次の略歴と父母兄弟
二 長久手合戦以前の秀次
三 長久手合戦における秀次
四 秀次関白となる
五 秀吉との確執から自害へ
六 秀次の人物評価をめぐって
虚像編 [菊池庸介]
【豊臣秀次は、秀吉の後継として関白に就いたものの、秀吉ほどの存在感を示すことができなかったこともあり、太閤の傀儡の印象が強い。それはいっぽうでは指導者として凡庸な人物像を、いっぽうでは屈折した人物像を作り上げた。前者は関白就任前の小牧・長久手合戦の敗軍から、後者は秀吉への謀叛の志からうかがうことができる。近世文学作品では、少しずつ変化をつけながらこれら秀次像を描出している。】
はじめに
一 愚将・秀次
二 謀叛人・秀次
おわりに
3 小早川秀秋
【養子も婚礼も大名においては政略そのものである。秀秋は小早川家に養子に入ったが、あくまで豊臣家の一門でもあった。そこに秀秋の裏切りのイメージがでてまわることになる。武士のモラルが強化される江戸の平和が確立するほど、秀秋の悪と愚は強調されていく。】
実像編[光成準治]
【小早川秀秋(小早川家を継承したのは文禄三年(一五九四)、実名「秀秋」を称したのは慶長二年(一五九七)頃だが、本稿における実名表記は原則として、「秀秋」に統一する)は、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦における裏切りで名高い。しかし、慶長七年に嗣子なく死没して家が断絶したため、秀秋に関する同時代史料は多くない。その結果、秀秋が秀吉の養子だったことは知られているが、養子となった時期や、秀吉実子誕生後の秀秋の処遇に関する研究は不十分である。そこで本稿では、小早川家継承以前の時期を中心に、豊臣一門としての秀秋の実像に迫っていきたい】
一 秀秋の父木下家定と家定の伯父杉原家次
二 秀秋の誕生
三 幼少期の秀秋
四 秀秋は秀吉の後継者とされていたのか
五 秀秋の亀山への入部
六 丹波亀山城主としての秀秋
七 小早川家への入嗣
八 なぜ毛利氏は秀秋入嗣を受け入れたのか
おわりに
虚像編[井上泰至]
【秀秋の場合、関ケ原の合戦で演じた裏切り者のイメージが、決定的である。それも冷静沈着に事を行ったのならまだしも、一般に流布されるその像は、東西両軍のどちらについていいのか、阿鼻叫喚の戦況を松尾山から眺めながら右往左往した挙句、徳川家康から鉄砲を撃ちかけられて、ようやく松尾山を下りる決断をしたことになっているのだから、その凡庸さはいや増す。「天下分け目」の合戦が、このような不道徳な、かつ愚かさを伴った優柔不断によって決定づけられたことへの、怒り・不満・失望は、東西両軍どちらの贔屓の者にとっても沸き上がり、関ケ原が語られる度に、秀秋の汚名は増幅していく格好となる。】
一 裏切り金吾の語られ方
二 黒田家の影
三 浅野家の立場
四 演出者長政と「あほう」秀秋―司馬遼太郎
4 豊臣秀頼
【秀頼が生まれなかったら、秀吉がもう少し長く生きていたなら。歴史に「もし」はないものの、この二つの条件を考えたくなるほど、秀頼は微妙なタイミングで生をうけた。豊臣家の滅亡後は、モラルの観点から、家康政権に義があることを証明する役割を負わされてゆく。】
実像編[遠藤珠紀]
【豊臣秀頼は、文禄二年(一五九三)に太閤豊臣秀吉の子息として誕生した。父秀吉は新たに豊臣の姓を立て関白に就任した立志伝中の人物である。しかしすでに老境を迎え、甥の秀次を後継者として関白を譲っていた。そうした中で誕生した秀頼は、どのように遇されたのだろうか。ここでは主に朝廷官位や摂関家との姻戚関係などに注目して追ってみたい。】
一 誕生
二 秀頼の初参内に至るまで
三 初めての参内
四 元服
五 その後の昇進
六 秀頼は摂関家の嫡子として扱われたか
七 秀頼の誕生による秀吉一族の変化
八 五摂家との関係
九 秀吉死後
虚像編[湯浅佳子]
【近世前期(寛永期以降頃)成立の『秀頼事記』(『豊内記』とも)は、大坂の陣の顛末を豊臣秀頼に焦点を当てて記した軍記である。秀頼はなぜ大坂城明け渡しを最後まで拒んだのか。自害の時何を思ったのか。本稿では、後続の軍記・実録類に大きな影響を与えた『秀頼事記』の秀頼像について、周辺書との関連をふまえながら考える。】
はじめに
一 『秀頼事記』の構成・典拠
二 『秀頼事記』と儒学思想
三 『秀頼事記』と『太閤記』
四 『秀頼事記』の秀頼描写
おわりに
5 北政所
【この女性は淀殿と比べて考えられることが多かった。勢い豊臣家滅亡の責任を負わない彼女は、賢婦人として光が当たっていく。二人の女性が考えた「豊臣家」とはどう重なり、どう異なっていたのだろう。】
実像編[堀 新]
【北政所(祢々)はは豊臣秀吉の正室である。しかし実名や生年についてすら諸説あるのが現状である。また、秀吉と恋愛結婚をした糟糠の妻というイメージや、秀吉の死後は淀殿と対立し、ひいては結果的に豊臣家を滅亡させたともされている。これらの見直しが進められているが、その実像はどのようなものであろうか。】
一 「ねね」か「おね」か「ねい」か
二 北政所と秀吉
三 北政所と淀殿
虚像編[網野可苗]
【秀吉と祢々は、貧しい頃から二人三脚で歩んだ夫婦であったという。ただその結婚の経緯には意外にも謎が多い。それを見逃さずに逸話を形成したのが江戸時代の小説類であった。器量よしとされた祢々が「猿面貧賤」の男と夫婦になるまでの物語と、「賢夫人」と言われた妻としての祢々像を追う。】
一 恋愛結婚?
二 間違いの婚礼
三 近代小説にみる二人の出会い
四 「賢夫人」としての姿
五 江戸時代の人々にとっての祢々
6 淀殿
【豊臣家の滅亡は、淀殿一人の責任にされることが多い。秀頼に責任はなかったのか? なぜ淀殿一人に責任が負わされるのか?そこにこの女性への脚色が、娘・側室・母の三つの面からふくらむ原因もあったように思われる。】
実像編[桐野作人]
【二度の落城、父母の自刃という苛酷な前史を背負いながら、豊臣秀吉の寵愛を受け、二子を産んだ浅井茶々こと淀殿。浅井三姉妹の長女として、その波瀾の生涯を追う。その地位は側室ではなく別妻であること。秀頼は実子か否か? 北政所(ねね)との関係はいかなるものだったか? 大坂の両陣まで徳川政権への服従を拒絶した生き様に迫る。】
一 生誕年と呼称
二 母の死から秀吉の庇護
三 鶴松の夭逝と秀頼の誕生
四 淀殿と北政所の連携―大津城の和議
五 二条城での秀頼・家康会見と淀殿
六 家老片桐且元との決裂
七 大坂の両陣と淀殿の最期
虚像編[湯浅佳子]
【豊臣秀吉の側室であり秀頼の母でもある淀には、大坂城の女主人として徳川家康に対抗し、大坂落城とともに自害した負けん気の強い女性のイメージがある。では近世期の記録や文芸の中で淀はどのように描かれたのか。本稿では特に大坂の陣ものの軍記・軍談類に注目し、それらにおける淀の人物描写の展開の様相を考察する。】
はじめに
一 史料における淀
二 軍記における淀
三 軍談・講釈書における淀
おわりに
7 千利休
【芭蕉も尊敬したアーティストだった利休。しかし、彼は芭蕉と違って生々しい面を持っていた。政治に絡んだからである。そのことがかえって利休を茶道の大成者としてイメージしていく原因になったとすれば、まことに皮肉なことと言わなければならない。】
実像編[吉田 豊]
【九州から大坂城までやってきた大友宗麟は、秀長から「内々の儀は宗易(利休)、公儀のことは宰相(秀長)存じ候」と言われ、「宗易ならでは関白様(秀吉)へ一言も申し上げる人なし」と見た。茶人でしかない利休の、驚くほどの権勢である。その利休が秀吉に突如切腹を命じられるのは、それから五年ほど後のことであった。】
一 内々の儀は宗易
二 利休と秀長
三 茶人としての利休
四 天下人の側近たち
五 最晩年の利休
虚像編[石塚 修]
【日本の伝統文化を代表する茶の湯にたいする現代人の持つイメージは、草葺きの茶室で見方によっては貧相な茶道具をありがたがっている不思議な世界ということになるだろう。たしかに茶会での和装の令婦人たちにその派手やかさを見ることはあるかもしれないが、雰囲気としては西洋の舞踏会のような社交界とは縁遠い。そのイメージの淵源にいるのが千利休なのである。】
一 利休と「わび茶」
二 利休と茶書
8 藤堂高虎
【高虎の武功については謎が多く、江戸期の家譜等形成にともなう増補が多い。むしろ、利休らを通した茶の文化とネットワーク、それに築城に代表されるテクノクラートとして、彼は実に有能だったのである。】
実像編[太田浩司]
【第二代将軍徳川秀忠の治世である元和三年(一六一七)、伊勢国・伊賀国で三二万石余の知行を得た藤堂高虎。徳川家康からの信頼も篤かった彼の築城術は、豊臣秀長の家臣として数々の城攻めや戦闘にたずさわった経験から得られたものであった。その秀長家臣時代の履歴は、藤堂藩に残された伝記に頼らざるを得ない。ここでは、伝記を検証しつつ秀長家臣時代の高虎を顧みる。】
一 藤堂高虎の前半生
二 高虎の出生地
三 武家奉公の変遷
四 秀長家臣として但馬攻めへ
五 三木城攻めの戦功
六 鳥取城攻めから高松城攻めへ
七 賤ヶ岳合戦前の伊勢攻め
八 紀州攻めと和歌山築城
九 四国攻めから紀州一揆の掃討
十 九州攻めと高虎
十一 秀長死去から秀保家臣へ
十二 秀吉・家康の家臣へ
十三 高虎の人物像
虚像編[井上泰至]
【刀傷の絶えなかった高虎、戦場でも機転のきく高虎、転々と主君を変える高虎、秀長には忠誠を誓った高虎、築城の名手高虎。多面的な高虎像を集約するのは難しい。ただし、秀長・家康という常識人を主君に持ったとき、高虎の持ち味は出てくるようだ。秀長から高虎へ、調整の人という視点が浮かんでくるが、そこに焦点を絞っていったのも、また司馬遼太郎であった。】
一 高虎の記憶
二 傷を負っても機転の利く男
三 賤ヶ岳の秀長から学ぶ
四 むじなに似た周旋をする男
五 築城の名手
9 小堀正一(遠州)
【高虎の建築の力をさぐるのに、遠州の存在は欠かせない。それはこの家の文化から芭蕉が登場することにもつながるのだろう。】
実像編[太田浩司]
【小堀遠州は、秀長の重臣だった小堀正次の長男。実名は正一で、遠州は「遠江守」の略である。茶道と作庭で知られるが、普請(土木工事)・作事(建設工事)のプロで、江戸幕府の技術官僚だった。その遠州が、父と同じく秀長重臣であった藤堂高虎に送った書状が最近発見された。その書状を読み解くことで、秀長の遺臣たちが、徳川政権下で「大坂幕府構想」を抱いていたことが知られる。その発想は、まさに秀長家臣として出発した彼らの経歴から生まれたものだった。】
一 藤堂高虎宛ての小堀遠州書状
二 遠州誕生から大和郡山時代
三 高仁親王への進物をめぐって
四 大坂城の数寄屋をめぐって
五 遠州と細川三斎
六 遠州の人間味
七 大坂城の第一期工事
八 大坂城の第二期・第三期工事
九 普請・作事奉行としての遠州
十 藤堂高虎と城普請
十一 遠州と高虎の立場
虚像編[石塚 修]
【茶の湯においては、初期には舶載の貴重な道具を飾り、それに見合う丁寧な点前が求められていた。たとえば、現代の流儀の茶の湯に「唐物」「台天目」「盆点」などという点前の許状があるのは、そうした名残である。実際に「唐物」を所持していなくても、その点前を稽古しているわけであるが、本来ならば、まずは相応の道具を所持し、稽古すべきという理屈も成り立つわけである。小堀遠州が、そうした道具の鑑定眼のある人物として広く知られていたことを、茶書を通じて見ていく。】
一 目利きとしての遠州
二 綺麗さびとしての遠州の茶の湯
コラム 小堀正次 [太田浩司]
一 秀長宿老・小堀正次の生涯
二 小堀家の先祖
三 秀吉に仕える正次
四 播磨国姫路城代の時代
五 興福寺「指出」相違への対応
六 秀長側近としての正次
七 大和郡山の町政
八 紀伊・和泉・大和の検地
九 引き続き大和国政を担う
十 備中国奉行となる正次
十一 備中への代官派遣
十二 備中国での「置目」の内容
十三 正次の死と遠州への継承
第二部 その他の豊臣一族
【秀吉の飛躍は、数少ないその家族の運命も変えた。とくに女性の存在に、本書では光をあてた。そこに意外なネットワークが認められるからだ。】
1 秀長の両親(木下弥右衛門、竹阿弥、大政所)[荻原大地]
【秀吉・秀長の両親は何者か。この謎については、古くから様々な説が検討され、現代にいたるまで定説を見ていない。秀吉・秀長の両親に関する確たる史料が出現していない以上、「秀吉・秀長の両親は何者か」という〈史実〉の解明は難しい。しかし、江戸時代から現代に至るまで、「秀吉・秀長の両親がどのような人物として物語られてきたのか」という〈事実〉を示すことはできる。本稿では、秀吉・秀長の両親にまつわる物語を取り上げ、その変遷を追っていきたい。】
一 諸説乱立期
二 太閤記物による諸説統合
三 『太閤素生記』の復権と秀長の焦点化
2 秀長の姉妹(日秀、朝日)[竹内洪介]
【秀長の姉は日秀、妹は旭(朝日)という名で知られている。近世・近代の資料を紐解くと、近世期には当初紙幅を割かれていた日秀が、近代に至って突如旭にその存在感を奪われることになる。なぜ現在、旭に焦点が当たるようになっているのであろうか。旭の婚姻について、軍記・軍書の展開をたどりつつ、近代の歴史小説も通覧する形で、その謎を明らかにしたい。】
一 悲劇の姉妹
二 駿河御前の婚姻
三 旭伝説の戦前・戦後
3 秀長の妻子[和田裕弘]
【豊臣秀長の妻子、とくに妻については謎が多い。むしろ謎だらけである。秀長の出自がはっきりしないことに加え、「郡山豊臣家」が廃絶したことで史料が散逸したことも大きい。主に江戸期の地誌や伝承などをもとに虚実織り交ぜた説が多く、「正室」と「側室」を混同するなど史実が混乱しているように見受けられる。史料の制約から限界があるものの、できる限り信頼性の高い史料をもとに考察していく。なお、正室と側室という表記は実態に即していないという見方もあるが、ここでは旧来通り「正室」「側室」として表記する。 】
一 正室は慈雲院
二 岳父は神戸伝左衛門
三 慈雲院の動向
四 側室「光秀尼」
五 後継者秀保
六 息女 豊臣秀保室
七 息女 小早川秀秋室
八 息女 毛利秀元室
九 養女 森忠政室
コラム 戦場での晴れ着 陣羽織[長崎 巌]
一 陣羽織とは
二 陣羽織が誕生するまで─胴服の出現
三 胴服から陣羽織へ
四 陣羽織の外形と構造
五 陣羽織に用いられる素材・生地
六 陣羽織の装飾性について
七 江戸時代の陣羽織
第三部 文学史料から読み解く
【歴史学者・桑田忠親の旧来の研究は大きくぬりかえられつつある。第三部では、歴史学(実像編)と文学研究(虚像編)の視点から、現在の動向を紹介する。】
1 太閤記
実像編[堀 新]
【小瀬甫庵(一五五九~一六四〇)の著述は、『太閤記』に限らず歴史家からの評価は低い。甫庵は自らの儒教思想とそれにもとづく歴史観によって、史実を改竄しているからである。その一方で、『太閤記』は世評や時代の雰囲気などを浮き彫りにしているという評価もある。はたして『太閤記』をどのように読めば良いのだろうか。】
一 最初は「豊臣記」か
二 作者・小瀬甫庵について
三 『太閤記』の構成と特徴
四 『太閤記』にみる秀吉の出自
五 『太閤記』にみる秀吉像
六 『太閤記』という史料
虚像編[竹内洪介]
【『太閤記』の名で現在広く知られるのは小瀬甫庵の『太閤記』である。ところが江戸時代において「太閤記」はその時々の秀吉伝を表すアイコンとして機能し、多種多様な「太閤記」が展開された。本章ではその中でも『甫庵太閤記』と『絵本太閤記』に注目し、江戸時代における「太閤記」の展開をたどる。】
一 もっとも有名な秀吉伝―小瀬甫庵の時代
二 近世前期における『太閤記』の派生
三 実録の展開
四 実録から読本へ
五 『太閤記』の姿勢の変容
2 大かうさまくんきのうち
実像編[堀 新]
【太田牛一『大かうさまくんきのうち』は大村由己『天正記』に続く太閤軍記である。前者が天正期(一五七三~九二)、本書が文禄期(一五九二~九六)を中心とし、双方あわせて豊臣秀吉の一代軍記となる。牛一の叙述姿勢は事実に忠実であり、その作品の史料的価値は高いが、『大かうさまくんきのうち』はどうであろうか。】
一 太田牛一と『大かうさまくんきのうち』
二 『大かう』の内容
虚像編[竹内洪介]
【太田牛一の『大かうさまくんきのうち』は、江戸時代『天正軍記』の一部として広く流布した。しかしその本文は大きく改変されている。いったいどのように、何の目的で改変されたのだろうか。】
一 『大かうさまくんきのうち』の諸本
二 『天正二十年 聚楽第行幸記』と『大かうさまくんきのうち』
三 『天正軍記』による改変
3 天正記
実像編[堀 新]
【『天正記』は豊臣秀吉の御伽衆大村由己が、秀吉の命により記した一連の作品である。勝者が現在進行形で自己を肯定する稀有な作品で、同時代史料として貴重である一方、美文調で秀吉の事績を潤色した一面もある。このように評価の分かれる史料の実像に迫る。】
一 『天正記』とは何か
二 作者大村由己について
三 由己と秀吉
四 『天正記』の目的と特徴
五 まとめ
虚像編[竹内洪介]
【『天正記』は秀吉の御伽衆・大村由己によって記録された十二の書物である、とする説が定説と見られる。本章では近年提出された新説を踏まえてその説を再検討し、新たな見解を示す。そしてその上で、近世期に同書がどのように展開したかという点についても併せて明らかにしたい。】
一 天下人秀吉の自伝的資料
二 『天正記』とは何か
三 『小田原御陣』の問題
四 近世期における『天正記』の広がり
コラム 「秀頼版」とは何者か[高木浩明]
第四部 絵画史料から読み解く
【合戦のイメージは、一般に屏風などから得られている。しかし、そこにも虚と実はないまぜになっているのだ。その位相をひも解いていこう。】
1 豊臣秀吉像と一族の肖像画[黒田 智]
【豊臣秀吉の肖像画は、天下統一という武威を背景にした軍神をあらわす神像的肖像画のひとつの完成型であった。また頬髭や顔貌、唐冠、背屏画に中華幻想がちりばめられている。さらに、全国の豊国社分祀にあたって政治的に量産され、遺児秀頼の神号とセットで下賜された。秀吉と豊臣一族の肖像画群は、中世社会の掉尾を飾って日本肖像画史上きわめて重要な位置を占めている。】
一 豊臣家の人びと
二 豊国大明神という神像
三 新八幡という軍神
四 神号という画賛
五 中華皇帝への憧憬
六 頬髭のシンボリズム
2 山崎合戦図屏風[竹内洪介]
【「山崎合戦図屛風」は戦国合戦図屛風の中にあって、民衆により創出されたという点で異色の屏風である。本章は山崎合戦を焦点化する近世文芸の展開にも注意しながら、民衆によって作り出された合戦図屏風を、既存の合戦図屏風の研究史に含める形で改めて位置づけ直すことを試みるものである。】
一 異色の合戦図屏風
二 『絵本太閤記』の流通と屏風化
三 「絵本」から「合戦図」へ
四 戦国合戦図屏風の中の「山崎合戦図屛風」
3 賤ヶ岳合戦図屏風[岡野有里香]
【賤ヶ岳合戦は、織田信長亡きあと、信長家臣団内における豊臣(羽柴)秀吉の地位を決定づけた合戦である。その合戦図屏風はどのような経緯によって制作され、合戦のイメージを伝えているのだろうか。同合戦場の地理関係から導かれる画面構成や、軍書の影響を受けて形成された有名な「七本槍」の場面描写に注目しながら読み解いてみよう。】
一 賤ヶ岳合戦の経緯
二 形態と画面構成
三 描かれる合戦の様子
四 諸本と成立背景
五 「七本槍」伝承の成立
六 賤ヶ岳古戦場地域で語り継がれる中川清秀の死
4 長久手合戦図屏風[高橋 修]
【天正十二年(一五八四)三月の長久手の戦い終盤の激戦を大画面に再現する「長久手合戦図屛風」。今日、多くの作品が伝わるが、その原本とみられるのが、犬山城主成瀬家に伝わる作品である。本稿では、この名品の全体像を把握しつつ、個々の戦闘場面の意味を読み解くことから、合戦像に込められた成瀬家の政治的思惑に迫る。】
一 画面構成
二 成瀬家のプロフィール
三 製作の背景
第五部 豊臣城郭研究の現在
【城は、いま一番ホットな分野だろう。言葉の生むあいまいさや「虚」に「実」の光を当てる力があるからだ。城は街を成し、道をつなげる。第五部では、広い視野から城を見ていく。】
1 北近江の城─横山城と長浜城─[福井智英]
【北近江には、戦国史上で注目される城郭が多数存在する。それらの中でも後に長浜城主となる羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と北近江の地が大きく関わることになったのは、元亀元年(一五七〇)六月二八日の姉川合戦後に主君の織田信長から横山城の守備を任されたことに始まる。本稿では、いずれも秀吉が城主となった北近江の代表的な城郭である「横山城」と「長浜城」を紹介する。】
一 横山城─浅井氏の支城から信長配下の城へ
二 長浜城─秀吉が築いた琵琶湖沿いの城
2 安土城から八幡山城へ[松下 浩]
【八幡山城は羽柴(豊臣)秀吉の甥で秀吉の後継者として関白にもなった秀次の居城である。しかし、単なる一武将の居城ではなく、豊臣政権の拠点城郭の一つであり、豊臣領国としての近江の中核城郭でもあった。歴史的に重要な意味を持つ城であるが、その実像は後世の開発や災害によって謎に包まれている部分が多い。また、秀次事件によって廃城されるなど、その歴史は短く、歴史的意義についても十分認識されているとは言いがたい。ここでは、あらためて八幡山城の歴史的意義と近年の発掘調査によって明らかとなった実態について紹介したい。】
一 安土城から八幡山城へ
二 八幡山城の構造
3 洛中の城─妙顕寺城と聚楽第・京都新城─[河内将芳]
【秀吉が京都に築いた城郭といえば、聚楽第や伏見城が知られている。ただ、聚楽第が洛中に築かれた城郭であるいっぽう、伏見城は洛外に築かれた城郭となる。じつは、秀吉は聚楽第以外にも洛中で築いた城郭が存在する。妙顕寺城や京都新城である。それでは、秀吉はどのような意図をもって洛中に城郭を築いていったのか、それをみていきたい。】
一 「二条の屋敷」「二条城」(妙顕寺城)
二 「内野御屋敷」「聚楽」(聚楽第)「京都禁裡辰巳角新宅」(京都新城)
4 御土居[河内将芳]
【天下一統がなしとげられた天正十九年(一五九一)に秀吉は堀と土塁によってかたちづくられた御土居(御土居堀)によって京都を囲繞する。平安京以来、京都がはじめて大陸の都市のように人工の壁によって取り囲まれることになった点では画期的な存在といえる。それでは、それはどのような意図をもってつくられたのか、天正十九年という年に注目してみていきたい。】
一 「洛中惣構」
二 なぜ天正十九年だったのか
5 豊臣大坂城[岡嶋大峰]
【豊臣家とその政権を語るうえで外すことのできない大坂城は、人々の関心を集め、さまざまに描写、言及されてきた。近代以降は常識をくつがえす大きな発見が重なり、絵画、文献その他の参考資料も踏まえて多くの復元案が作られた。今日普及している豊臣大坂城のイメージ形成過程で、どのような探求がなされたか。またいかなる成果が生まれたのか。】
はじめに─大阪城と大坂城研究にかかわる沿革
一 大阪城天守閣復興と古川重春氏
二 豊臣大坂城本丸の解明─「回転する」本丸図?
三 天守の復元について─絵画資料をどう見るか
おわりに
6 名護屋城跡と大名陣跡[宮崎博司]
【文禄・慶長の役(一五九二~九八)に際して、豊臣秀吉が命じ大名達の割普請によって先進的な土木、建築技術を用いて築城された名護屋城。周辺三㎞圏内の丘陵地には全国各地から集結した大名の陣屋が一五〇余り築かれ、城下町も形成され、名護屋城を中心として巨大な軍事都市が忽然と現れた。しかし、秀吉の死により朝鮮半島から軍勢が撤退するとその役割を終えた。】
一 肥前名護屋城の築城の経緯
二 名護屋城の威容
三 肥前名護屋城図屏風に描かれた名護屋城
四 秀吉の名護屋城入城
五 発掘調査で判明した名護屋城
六 大名陣跡の配置
七 明らかとなった大名陣跡
八 名護屋城の終焉
7 伏見城[山田邦和]
【豊臣秀吉の最期の居城となったのが伏見城である。京都の南郊で宇治川に面したところにある伏見は、京都・大坂・奈良をつなぐ水陸交通の結節点だった。しかし、伏見城は第一期から第四期までの四段階に分かれるし、第一・二期と第三・四期ではその位置も異なっている。近年の調査研究の成果を踏まえつつ、伏見城の実像とその意義に迫ってみたい。】
一 伏見の性格
二 第一期・第二期伏見城(豊臣期指月屋敷・同指月城)
三 第三期伏見城(豊臣期伏見山城〈木幡山城〉)
四 第四期伏見城(徳川期伏見山城〈木幡山城〉)
8 大和郡山城[和田裕弘]
【豊臣秀吉の実弟秀長の居城である。近世郡山城の淵源となったのは前代の筒井順慶時代である。織田信長の命として大和国の城破が進み、唯一の拠点として郡山城の造営がさなれた。秀吉の時代になるに及んで筒井氏は伊賀国に転封となり、かわって豊臣政権ナンバー2の秀長が入城した。豊臣政権の藩屏として、紀伊・和泉・大和三か国の領主にふさわしい城郭に改修したものと思われる。詳しいことは不明だが、「大和大納言」と称された郡山豊臣家の拠点にふさわしい威容を備えていただろう。軍事や政治経済の中心的な役割だけでなく、豊臣政権の社交の場としても機能した。】
一 郡山城の前史
二 織田政権下の郡山城
三 秀長の郡山城
四 郡山城の縄張
五 大織冠を郡山に遷座
六 城下町繁栄策
七 社交の場
八 文化サロンの場
九 郡山城の後史
9 倭城のいま1─西生浦倭城─[川西裕也]
【七年間に及ぶ壬辰戦争(文禄・慶長の役/壬辰倭乱)において、日本軍は朝鮮半島の沿岸地帯に日本式城郭である倭城を築いて駐屯した。倭城は「標準化石」、すなわち戦後手付かずのままに放棄され、後世の改変が加えられてこなかった遺構と捉えられることが多い。本項では、倭城に対するこうした評価が妥当なのかどうかについて再考したい。】
はじめに
一 西生浦倭城のいま
二 西生浦倭城の歴史
三 西生浦倭城再考
四 壬辰戦争後の倭城
むすびにかえて
10 倭城のいま2─加徳倭城ほか─[光成準治]
【筆者は堀新氏・佐島顕子氏とともに、二〇二三年一月二六~二八日の行程で、倭城を踏査した。踏査した倭城は、①蔚山、②梁山、③亀浦、④東萊、⑤釜山、⑥釜山子城台、⑦加徳(訥次)。このうち、①、②、⑤、⑥は、日本による植民地支配下において「古蹟」に指定されていた。光復後になると、「古蹟」に指定されていた倭城は、一九六二年に制定された文化財保護法によって大韓民国指定史跡となった。その後、「日帝指定文化財に対する再評価」に基づき、国指定は解除されたが、現在、①は蔚山広域市文化財、②は慶尚南道文化財資料、③は釜山地方文化財記念物、⑥は釜山広域市記念物に指定されている。
①~⑦のうち、④と⑦はこれまでに史跡としての指定をうけていない。④は遺構の残存度が良好でなかった。一方、加徳は明瞭な遺構を確認できた。もっとも、史跡として指定されていないことに起因する問題点もみうけられた。そこで、加徳倭城の現状について、今回踏査した他の倭城との比較を交えて報告し、倭城をとりまく課題を提起したい】
一 加徳倭城の位置
二 文献資料にみられる文禄期の加徳倭城
三 文献資料にみられる慶長期の加徳倭城
四 加徳倭城の現状
五 他の倭城との比較と今後の課題
むすびにかえて[堀 新]
執筆者プロフィール
(※執筆順 ①所属・肩書 ②研究分野 ③主要業績)
北川 央(きたがわ・ひろし)
①九度山・真田ミュージアム名誉館長。②織豊期政治史、近世庶民信仰史、大阪地域史。③『大坂城 秀吉から現代まで 50の秘話』(新潮新書、二〇二一)、『大坂城をめぐる人々―その事跡と生涯』(創元社、二〇二三)、『豊臣家の人びと―栄光と悲哀の一族』(三弥井書店、二〇二三)。
金子 拓(かねこ・ひらく)
①東京大学史料編纂所教授。②織田信長・豊臣秀吉の時代と史料の研究。③『織田信長という歴史』(勉誠出版、二〇〇九)、『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社、二〇一四)、『織田信長権力論』(吉川弘文館、二〇一五)、『長篠合戦』(中央公論新社、二〇二三)、『史料が語る信長の時代』(吉川弘文館、二〇二六)。
菊池庸介(きくち・ようすけ)
①福岡教育大学教授。②日本近世文学。③『近世実録の研究―成長と展開―』(汲古書院、二〇〇八)、「島原・天草一揆の記憶―『天草軍談』の特徴―」(倉員正江・鈴木彰・源健一郎編『いくさと物語の中世 第二集』汲古書院、二〇二五)、「「天草軍記物」にみる一揆の首謀者たち―『嶋原記』『山鳥記』『嶋原実録』を例に」(中根千絵・南郷晃子編『江戸文化に拓くキリシタン表象―娯楽・科学・思想』三弥井書店、二〇二五)。
光成準治(みつなり・じゅんじ)
①九州大学大学院比較社会文化研究院特別研究者。②日本中・近世移行期政治史。③『毛利氏の御家騒動―折れた三本の矢』(平凡社、二〇二二)、『天下人の誕生と戦国の終焉』(吉川弘文館、二〇二〇)、『本能寺前夜―西国をめぐる攻防』(角川選書、二〇二〇)。
遠藤珠紀(えんどう・たまき)
①東京大学史料編纂所准教授。②中世朝廷制度史。③『中世朝廷の官司制度』(吉川弘文館、二〇一一)、「徳川家康の左京大夫任官はいつか」(『古文書研究』九五、二〇二三・七)、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」(井上泰至編『アジア遊学二六二 資料論がひらく軍記・合戦図の世界』勉誠社、二〇二一)。
湯浅佳子(ゆあさ・よしこ)
①東京学芸大学教授。②仮名草子・近世軍記。③『近世小説の研究─啓蒙的文芸の展開─』(汲古書院、二〇一七)、『合戦図─描かれた〈武〉』(勉誠社、二〇二一)、「近世軍記の実用性・文芸性─『難波戦記』の叙述方法─」(『日本文学』二〇二四・七)、「大阪城天守閣蔵「大坂夏の陣図屛風」と近世軍記―『難波戦記』との関わりを中心に」(堀新編『戦国合戦図屛風・絵巻を読む』勉誠社、二〇二六)。
網野可苗(あみの・かなえ)
②近世文学。③「化け物としての分福茶釜」(木越治・勝又基編『怪異を読む・書く』国書刊行会、二〇一八)、「物くさ太郎の一代記―『物種真考記』にみる手法としての「実録」―」(『近世文藝』一〇四号、二〇一六・七)。
桐野作人(きりの・さくじん)
①歴史作家、武蔵野大学政治経済研究所客員研究員。②織豊時代史。③『織田信長―戦国最強の軍事カリスマ』(KADOKAWA、二〇一四)、『明智光秀と斎藤利三』(宝島新書、二〇二〇)、『本能寺の変の首謀者はだれか』(吉川弘文館、二〇二〇)。
吉田 豊(よしだ・ゆたか)
①元堺市博物館学芸員。②堺郷土史。③「近世初頭の貿易商人」(『関西近世考古学研究』十七号)、「絵図でみる堺港」(『堺研究』三三号)、「堺駿河屋―西洋づくりの与謝野晶子生家―」(『堺市博物館研究報告』三六号)。
石塚 修(いしづか・おさむ)
①筑波大学人文社会系教授。②日本近世文学、茶道と文学。③『西鶴の文芸と茶の湯』(思文閣出版、二〇一四)、『茶の湯ブンガク講座』(淡交社、二〇一六)、「『万の文反古』巻一の四「来る十九日の栄耀献立」再考―献立のどこが「栄耀」なのか―」(『近世文藝』一〇〇、二〇一四)。
太田浩司(おおた・ひろし)
①淡海歴史文化研究所所長。②日本中近世史。③『近世への扉を開いた羽柴秀吉 長浜城主としての偉業を読む』(サンライズ出版、二〇一八)、『戦国大名浅井氏と家臣団の動向~北近江の中世後期における政治・社会構造~』(サンライズ出版、二〇二五)、『豊臣秀長の真相 関白の弟から見た天下一統』(サンライズ出版、二〇二五)。
荻原大地(おぎはら・だいち)
①実践女子大学文学部部専任講師。②日本近世文学、特に近世実録。③「明治期における近世実録 『武道白石英』の受容」(『学苑 昭和女子大学紀要』九七七、二〇二四・十二)、「「女武勇」とその類型―『女武勇集』の一群について―」(『近世文芸 研究と評論』一〇三、二〇二二)、「佐倉惣五郎物」実録の系譜―『佐倉花実物語』の位置づけをめぐって―(『近世文藝』一〇七、二〇一八・一)。
竹内洪介(たけうち・こうすけ)
①就実大学講師。②日本近世文学。③「幕末の出版検閲と『絵本太閤記』の再版―幕末絵本読本の人名表記をめぐって―」(『国語国文研究』第一五八号、二〇二二)、「『太閤記』前半部構成試論」(『国語国文』第九五巻五号、二〇二六)、「太閤記物実録三種考―『真書太閤記』『太閤真顕記』『重修真書太閤記』の成立を辿って―」(『近世文藝』第一一三号、二〇二一)。
和田裕弘(わだ・やすひろ)
①戦国史研究家。②戦国織豊期。③『織田信忠─天下人の嫡男』(中央公論新社、二〇一九)『天正伊賀の乱─信長を本気にさせた伊賀衆の意地』(中央公論新社、二〇二一)、『柴田勝家─織田軍の「総司令官」』(中央公論新社、二〇二三)。
長崎 巌(ながさき・いわお)
①丸紅ギャラリー副館長。②染織文化史、服飾文化史。③『きものの不思議』(東京美術、二〇二五)、『日本の婚礼衣裳 寿ぎのきもの』(東京美術、二〇二一)、『Kimono Beautyシックでモダンな装いの美 江戸から昭和』(東京美術、二〇一三)、『きものの裂とことば案内』(小学館、二〇〇五)。
高木浩明(たかぎ・ひろあき)
①近畿大学•武蔵野大学大学院非常勤講師。②日本中世文学、書誌学。③『中近世移行期の文化と古活字版』(勉誠出版、二〇二〇)、「国文学研究資料館蔵古活字版悉皆調査目録稿―附、国立国語研究所・研医会図書館蔵本」(『調査研究報告』第三九号、国文学研究資料館、二〇一九)、「大東急記念文庫蔵古活字版悉皆調査目録稿」(『調査研究報告』第四〇号、国文学研究資料館、二〇二〇)。
黒田 智(くろだ・さとし)
①早稲田大学社会科学総合学術院教授。②中近世日本文化史。③「ふたつの朝比奈 「和田合戦図屏風」と怪力の表象」(堀新編『戦国合戦図屏風・絵巻を読む』勉誠社、二〇二六)、『たたかう神仏の図像学』(吉川弘文館、二〇二一)、『草の根歴史学の未来をどう作るか』(共編、文学通信、二〇二〇)。
岡野有里香(おかの・ゆりか)
①公益財団法人金沢文化振興財団前田土佐守家資料館学芸員。②日本近世史。③「「四戦場図屏風」を読む」(共著、堀新編『戦国軍記・合戦図の史料学的研究』二〇二四)、「変容する「賤ヶ岳合戦」のイメージ―『賤箇嶽記』と合戦図屛風に描かれた決戦の場」(堀新編『戦国合戦図屏風・絵巻を読む』勉誠社、二〇二六)。
高橋 修(たかはし・おさむ)
①茨城大学人文社会科学部教授。②日本古代中世史。③『中世水軍領主論 紀州熊野からのアプローチ』(高志書院、二〇二三)、「常陸佐竹氏本領・久慈郡佐竹郷の復元的考察」(仁木宏編『中世武家拠点の研究』高志書院、二〇二五)、「岡田美術館収蔵「合戦図屛風」(「三月十二日合戦・三井寺合戦図屛風」)について」(堀新編『戦国軍記・合戦図の史料学的研究』二〇二四)。
福井智英(ふくい・ちえ)
①長浜市長浜城歴史博物館館長(学芸員)。②地域文化史。③『疫神病除の護符に描かれた元三大師良源』(サンライズ出版、二〇二〇)、「良源の実像と元三大師信仰」(文化誌『近江学』十四、二〇二三)。
松下 浩(まつした・ひろし)
①滋賀県観光文化スポーツ部文化財保護課副主幹。②日本中近世史・城郭史・都市史。③『織田信長 その虚像と実像』(サンライズ出版、二〇一四)、『覇王 信長の海 琵琶湖』(共著、洋泉社、二〇一九)、『織田信長の城郭』(編著、戎光祥出版、二〇二〇)。
河内将芳(かわうち・まさよし)
①奈良大学文学部教授。②日本中世史。③『都市祭礼と中世京都』(法藏館、二〇二四)、『織田信長と京都』(戎光祥出版、二〇二四)、『図説豊臣秀長─秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版、二〇二五)。
岡嶋大峰(おかじま・ひろたか)
大阪城天守閣主任学芸員。日本近世史。「加越能文庫による大坂冬の陣の検討―真田丸の戦いを中心として―」(『加賀藩研究を切り拓く─長山直治氏追悼論集』桂書房、二〇一六)、「慶長期における前田家中の分裂と統合」(見瀬和雄編『中近世日本海沿岸地域の史的展開』岩田書院、二〇二四)
宮崎博司(みやざき・ひろし)
①佐賀県立佐賀城本丸歴史館学芸員。②日本近世史、城郭史。③「絵図からみた唐津城下町の変遷」(『公益財団法人鍋島報效会研究助成 研究報告書』第八号、二〇一八)、「肥前名護屋の庭園遺構について」(『佐賀県立名護屋城博物館 研究紀要』第二一集、二〇一五)、「名護屋城跡の破却に関する一考察」(『佐賀県立名護屋城博物館 研究紀要』第三一集、、二〇二五)、「名護屋城跡と文禄・慶長役」(『歴史研究』第七二八号、戎光出版、二〇二五)。
山田邦和(やまだ・くにかず)
①同志社女子大学特任教授、(公財)古代学協会理事・研究部長。②考古学・都市史学(平安京・中世京都の都市構造)。③『京都都市史の研究』(吉川弘文館、二〇〇九)、『京都 知られざる歴史探検』上・下巻(新泉社、二〇一七)、『変貌する中世都市京都(京都の中世史 七)』(吉川弘文館、二〇二三)。
川西裕也(かわにし・ゆうや)
①新潟大学助教。②朝鮮史。③『壬辰戦争と東アジア―秀吉の対外侵攻の衝撃―』(共編、東京大学出版会、二〇二三)、『朝鮮中近世の公文書と国家―変革期の任命文書をめぐって―』(九州大学出版会、二〇一四)、「「文禄慶長の役」呼称の再検討」(『韓国朝鮮文化研究』二一、二〇二二)。























































































